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日本が極東の「三つ巴構造」を破壊した結果【韓国崩壊6の3】

誅韓論

第6章 見えてきた日本の選択! 極東の原状回復戦略!

では、その安定した「三つ巴」構造はなぜ壊れてしまったのか? 朝鮮を独立させようとして、日本が自分から壊してしまったのである。

1894年2月、朝鮮南部で大規模な農民一揆が発生する。反乱軍は勢力を増し、5月には全羅道の道都を制圧する。事態を収拾するため、李朝は袁世凱に対して清国軍の出兵を要請した。日本もまた清との天津条約に基づき、日本人保護等の名目で出兵する。

当時、日朝貿易は盛んになりつつあった。日本商人は朝鮮の穀類を買い付け、日本に輸出した。必ずしもそればかりが原因ではないが、貿易で利益を得る朝鮮人がいる一方で、価格高騰などの皺寄せを受ける人たちもいた。日本はそういった在留日本人の命と日本商人の正当な利益を守らねばならない立場だった。

一方で、反乱を主導した東学党はスローガンの一つとして「斥倭洋」(日本西洋を排斥する)を掲げていた。

両軍の出兵を機に、日本は清の勢力を一挙に朝鮮から排除し、同国を近代的な独立国家に仕立て上げようとした。日露間に緩衝地帯を作る戦略を発動したのである。

かくして94年8月、日清戦争が勃発する。日本は清に勝利し、下関条約を締結する。朝鮮は独立を果たした。今にして思えば、これが間違いの元だったのである。

日本は親日派内閣を組織すると、役人の汚職を監視し、奴隷制を廃止し、法に基づかない刑罰を禁止し、女子の早婚を止めさせ、王室費と国庫の区別を付けさせた。

これに朝鮮の特権階級が猛反発した。そして己の特権を取り戻すため、なんと国王の身柄ごとロシア公使館にトンズラし、以後、日本を排除してロシアにおもねり始めたのである。

一方、巨額の賠償金と敗北が痛手となった清は、急激に衰退する。下関条約からわずか4年後には義和団の乱が発生し、辺境が権力の空白地帯と化してしまう。

その隙を突いたのがロシアだ。手薄になった満州を侵略して、勝手に領有宣言をした。

このように、日本はあれほどロシアの南下を警戒しながら、結果的に自分で呼び込んでしまったのである。そのせいで、次にロシアと戦わざるをえなくなった。

その結果、勝ったはいいが、乞食国家朝鮮の扱いが国際社会で問題になる。結局は隣にいる日本が面倒を見させられた。結果は周知の通り「天文学的な損害」である。

元はといえば、「三国鼎立状態」を自分から崩してしまったのが原因だ。そして、その必然として清・ロシアと順番に戦争しなければならない羽目になった。

当時の日本人が愚かだったのは、パートナーの資質を見極めなかったことだ。朝鮮支配層には最初から近代化の意志も独立の気概もなかった。にもかかわらず、

「日本が後押しすれば、朝鮮といえども近代的な独立国家へと変貌する。そして朝鮮人とて独立を得れば、それを外敵から守ろうとするだろう」などという勝手な願望(希望的観測)を抱き、それを前提にして国家戦略を組み立ててしまったのである。

だから、朝鮮を対露バッファーに仕立て上げる戦略は破綻した。

仮に「現実」を前提として戦略を立てるならば、少なくとも自分から清に戦いを挑んで三カ国の均衡を破るべきではなかった。朝鮮で巨大な農民反乱が起ころうが、あくまで「清の内政問題」として放置し、軍事力の行使は日本人の生命財産の擁護に限るべきだった。

現代のわれわれはこの歴史的経験から貴重な教訓を得ることができる。

半島で何が起ころうが、朝鮮の「国内事情」として関わるべきではない。中韓の間に楔を打ち込むとか、韓国を支援して対中防波堤の役割を期待するとか、余計なことはすべきではない。

韓国崩壊「誅韓論」目次http://korea-collapse.com/page-94

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