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錯覚その1・「韓国には安全保障上の戦略的価値ある」【韓国崩壊4の3】

誅韓論

第4章 韓国「防波堤神話」の大崩壊! これまでの常識は大間違いだ!

しかし、よくよく精査してみると、韓国には「防波堤」や「緩衝地帯」としての戦略的価値などまったくないことが分かる。歴史を見ると、むしろ「逆」だったのが客観的事実なのだ。

つまり、これまで日本人は完全に錯覚していたのである。

七世紀半ばの新羅による半島統一から論じよう。

新羅は八世紀後半には内乱によって社会が混乱し始める。すると、新羅人の賊が頻繁に対馬・九州に侵入し、略奪や放火などを繰り返すようになる(「韓寇」また「新羅の入寇」と呼ばれる)。

しかも、私的犯罪だけでなく、王命による国策海賊行為も行われた。本国に呼応する形で、在留民(今でいう在日)が反乱を起こす事件もあった。894年には大小百隻、2500名もの新羅の賊軍が対馬を侵略したという。

このように、正面きって日本と戦う力のない新羅は、性根卑しくも、形式的には国家が責任外に位置しながら、民間の賊を使って日本に非正規戦を繰り返したのである。

この海賊行為は次の高麗(936年半島統一)になってからも、しばしば繰り返された。しかし、なんといっても、日本を最大のピンチに陥れたのは元寇の使嗾である。

モンゴル帝国に征服されると、高麗の忠烈王は日本侵略を執拗に唆し、自ら進んで軍船・兵員・糧秣の提供などを申し出た。『高麗史』に記されたその内容は、実に卑屈で、いかにも強者に媚びる韓国人らしい。

クビライは以前から書状をもって日本を服属させようとしていたが、忠烈王の進言が武力侵攻の決断を促したことは間違いない。

1274年の文永の役の際、総勢四万とも言われる侵略軍のうち、半数程度は高麗軍と高麗人水夫であったと思われる。つまり、実質「モンゴル・コリア連合軍」だったのだ。

こうして自ら進んで尖兵となった高麗軍は、対馬と壱岐で住民を大虐殺し、女性と子供たちを戦利品として拉致して、忠烈王に献上した。

1281年の弘安の役は、総勢十四、五万、軍船四千隻以上という空前の規模だ。うち旧南宋軍・水夫が十万、高麗軍一万と言われる。

両役とも高麗軍を指揮したのは高麗人武将の金方慶だ。弘安の役の際は「征日本都元帥」という肩書である。高麗軍は司令官まで自分たちで擁していたのだ。

不思議なことに、戦後日本の歴史教育は、高麗がモンゴル帝国と積極的な共犯関係にあり、完全に侵略者の一味であった事実を伏せている。また、九州をはじめとする各地の武士団が団結して、上陸した敵軍をほぼ殲滅した事実にもあまり触れたがらない。

さて、度重なる侵略に対する報復として、対馬の一部が倭寇に関わるようになる。

1419年、李朝はその対策を理由として、約1万7千の兵力と二百隻の艦隊を率いて対馬を奇襲侵略した(応永の外寇)。上陸した朝鮮軍は島民を虐殺し、家屋や船を焼き払って回った。

これに対して宗氏の兵力はわずか600程度。だが、地の利や武器の質が優れていたこともあり、十日あまりの奮戦で撃退した。日朝の記録は食い違うが、宗氏側によると戦死123名に対して、2500あまりの賊を斬ったとある。

このように、歴代半島王朝の執拗な侵略行為を見ると、秀吉の「朝鮮征伐」が何ら罪悪感を覚える必要のないものであることが分かる。正面きって堂々と戦いを挑まずに姑息な策略ばかり使う連中を、いつか誰かが征伐せねばならなかったはずだ。

むしろ、秀吉のおかげで以後三百年間、韓国の対日侵略を防止できたと言えよう。逆に言えば、再び対日侵略期に入った韓国に対して「第二の朝鮮征伐」が必要かもしれない。

韓国崩壊「誅韓論」目次http://korea-collapse.com/page-94

(なんと、8世紀からの新羅の入寇、モンゴルを扇動しての元寇、そして15世紀の応永の外寇と、朝鮮半島国家は日本を常に侵略して、非道の限りを尽くしていたんですね。)

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